生きていると、ニョキっと問いが立つ。
目的はなにか?
なんのためにやるのか?
本当にやりたいことはなにか?
本当に求められていることはなにか?
それに答えてゆくことは、
けっこうな時間と労力と集中力をつかう。
どんなに陳腐な言葉が答えとして浮かぼうと、
それを一回出さねば、その問いは座ってくれない。
ずっと立ったまま、自分をみつめている。
自由にはなれない。
存在感ありありで、わたくしは窮屈なままである。
答えが出て言葉にすると、
問いさんは一旦は座ってくれる。
ちょっとほっとして少し大人になった気がする。
でもまたニョキニョキと立ち上がってこられる。
なんで!?
それは、行動していないからだ。
「行動が伴っていない!」とよく言われた。
昔の人はうまいこと言うな~と思う。
問いさんと答えさんと行動さんはセットになっていて、
それが人柄や人間性と呼ばれるのだ。
とりあえず、かっこいい答えはいりませんよ、と思う。
響き的にかっこいい問いや、
響き的にかっこいい答えは、
抽象的に過ぎて、動きにくいんだよね~
自分の身体を行動まで押し上げる
インパクトがあればいい。
答えは聞き覚えのある言葉になるかもしれない。
でも、恥じることなどない。
答えはいつもショッキングではない。
意外性を放つ必要性などない。
当たり前に感じる存在がいい。
哲学者が出してくれた答えを
自分の答えにしてはいけない。
悩んだり迷ったりが減り、出した答えに自信が持てず、
彼の出した答えと答え合わせをしなければ、不安を感じ、
自分を信じる強さが弱くなる。
ただ、その「思考」を(理解できなくても)感じることができれば、
その言葉に出会えたことは広がりを生む。と思う。
嗚呼、ごちゃごちゃと考えていてもしょうがない。
答えが降りてくる瞬間は、
動いている時だ。
続けることと、動くことは違うよ。
動いていれば、答えが降りてくる一瞬にめぐりあえる。
自分なりの「新しさ」にも出会える。
その瞬間は僕にとって、インパクトだ。
だから僕はこの仕事を、なんとしても続けてゆきたいのだ。
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